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ウィキペディア感謝!真珠湾攻撃直前ハル国務長官と最後の会談臨む野村 吉三郎

投稿者: 名無しさん 投稿日時: 2009/8/7 1:53

建白:JR駅前広場周辺整備費「36億8.500万円」

:「紀の国 偉人 相撲番付表」建立建設希求!毎年投票!

Re: 和歌山市役所 企画課 小谷課長 御回答「”間違いです!」

出典: : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野村 吉三郎 1877年12月16日 -1964年5月18日(満86歳没)

阿部内閣の外務大臣に迎えられ記者団を前に抱負を語る野村(1939年9月26日)
生誕地 和歌山県
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1898 - 1937
最終階級 海軍大将
指揮 第三艦隊司令長官
呉鎮守府司令長官
横須賀鎮守府司令長官
賞罰 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
除隊後 学習院院長
外務大臣(阿部内閣)
駐米大使(日米開戦時)
参議院議員(戦後)
表・話・編・歴
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。

駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。

経歴 [編集] 海軍軍人時代 [編集]
1895年(明治28年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業。以後海軍軍人としての経歴を歩む。

海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、1901年(明治34年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリア、ドイツ駐在を経て、駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。

 海軍大学校は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。

 後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト(米海軍次官 1913−1920年)ら海外の政治家とも親交があった。

 やがて1926年(大正15年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府 司令長官などを歴任した。

1932年(昭和7年)、第三艦隊司令長官として上海事変に参加している折に、朝鮮人尹奉吉によるテロ事件にあって右目を失明する。一命を取り留めて海軍大将昇進および勲一等旭日大綬章を受章、1937年(昭和12年)海軍を退役して学習院院長となる。

日米交渉とその決裂 [編集] 信任状をルーズベルトに奉呈する為、ホワイトハウスを訪ねる野村駐米大使(1941年2月14日)野村は【国際法の権威】であったことから、1939年(昭和14年)9月25日、阿部内閣において 外務大臣に抜擢される。
また1941年(昭和16年)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、ルーズベルトとは旧知の間柄ということが期待されて 駐米大使に起用された。しかし日本の南部仏印進駐によってアメリカとの関係が一層悪化すると、日本政府は 前駐独大使で外務官僚の来栖三郎を異例の「二人目の大使」としてワシントンに派遣、両大使でアメリカのハル国務長官と戦争回避のための交渉を行った。

 外交経験の少ない野村を 来栖に補佐させようとしたこの人事は逆にアメリカ側の不信を招く結果となり、交渉は難航した。

真珠湾攻撃の直前にハル国務長官と最後の会談に臨む 野村大使と来栖大使(1941年12月7日)野村はかねてから「アメリカの挑発がない限り、日本は戦争を起こさない」と言明していたが、

 中国からの日本軍の 全面撤退や 日独伊三国軍事同盟の破棄、重慶国民党政府以外の否認を求める ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は、米英等を相手とする第二次世界大戦に突入することを決定し、マレー作戦とそれに続く 真珠湾攻撃で開戦した(なお対米宣戦布告が遅れた問題については「真珠湾攻撃と宣戦布告遅延問題」を参照のこと)。

1942年(昭和17年)に日米間の【交換船】で帰国、その後枢密顧問官に転じた。

戦後 [編集] 終戦後の1946年(昭和21年)8月に、野村は公職追放となるが、ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は積極的に野村に近づき、定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、経済的に苦しい彼の便宜を図った。メンバーの一人であるウィリアム・R・キャッスルは、

 野村を「日本を正しい道筋で、再び重要な国家となるように再建するのに 役立つ人物の一人だ」と評した。

1953年(昭和28年)同郷の松下幸之助に請われ、

 松下の資本傘下となった 日本ビクターの社長に就任。
空襲による会社や工場施設の焼失、戦後の労働争議などでの危機的経営を創生期の親会社で疎遠となっていたアメリカRCAと技術支援契約を結び再建の道筋をつける。

追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、海上自衛隊の創設に関わる。これが縁で1954年(昭和29年)に参議院選挙に出馬、参議院議員となる。自由民主党に参加して、防衛政策を担当した他は、外交調査会会長を務め、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任した。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から 見送りになった。その後の運用では旧軍・自衛隊の士官経験者の防衛庁長官も誕生しているが(山下元利・中谷元など)、そのような前例が出来ていない時期だったことと、野村が軍人としてあまりにも大物過ぎたことが影響したとされる。


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