Re: 高野山いろいろ |
投稿者: 名無しさん 投稿日時: 2025/4/11 18:12 室町時代、関東ではそこそこ有名な「永享の乱」という戦い(京都の将軍が関東公方の謀反を征伐)があったが、ほぼ同じ頃に紀伊の国でも紀州人同士の紛争があった。「永享の高野動乱」である。 この頃の高野山は学侶方と行人方という二派に分かれて対立していた。そこに加えて1433年の夏、日照りにより紀北は干魃となり、高野山と粉河寺の間で用水争いが起こり、粉河に武力攻撃すると決まった。が、それによって行人たちの勢力拡大を恐れた学侶らが攻撃を中止させようと、紀伊守護大名の畠山満家に訴えた。すると守護代の遊佐氏や畠山重臣らが京都から軍勢を率いて高野山へ派遣、調停に臨んだが、行人勢は幕府が追討に来たと勘違いし学侶方と戦闘。辺り一面に火を放って逃亡し、二千件の坊舎が焼け落ちたという。両者が和解したのはずっと後。 中世紀州は乾燥気味な国で、水の利権を巡り争いが何度も起こった。寺は高野山vs粉河根来、そこに大名が二派に別れて肩入れ(義就系の畠山総州家vs政長系の畠山尾州家)したので、戦乱期が長く尾を引いた。 人心が統一できたのは豊臣秀長の領国化以降、紀州の平和は浅野徳川藩政の近世到来を待たねばならなかった。 |