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備忘録: 正義を国民の手に 労働者の手に平和と民主主義、人権をまもる砦をつくろう 関西合同法律事務所が生まれた

投稿者: 名無しさん 投稿日時: 2010/2/2 6:46

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2009年07月01日 水曜日  正義を国民の手に 労働者の手に
  
平和と民主主義、人権をまもる砦をつくろう 関西合同法律事務所が生まれた
1、前史

 1951年4月、事務所の創設者である東中光雄が弁護士登録をしました。東中弁護士は、当時日本共産

党の衆議院議員であった加藤充弁護士の法律事務所に入りました。加藤法律事務所は、当時の東区上本町2丁目にあった上二病院ビルの地階にあり、同ビルでは日本共産党大阪府委員会と同居でした。

 1950年には朝鮮戦争が勃発しており、GHQによる共産党員のレッドパージが行われ、日本共産党はなかば非合法化されるという事態にありました。そのなかでの弁護士活動のはじまりでした。

 1951年から52年にかけての弁護士活動の特徴は、言論弾圧とのたたかいでした。朝鮮戦争を批判する言論は、つぎつぎに弾圧されました。裁判は、日本の裁判所ではなく、占領軍の軍事裁判所でした。検事も裁判官も米軍軍人というなかで行われました。

 1952年には、大量弾圧事件が集中的に起こりました。全国的には東大ポポロ事件、メーデー事件、菅生事件、大須事件など。大阪では吹田事件、枚方事件、宮操事件、日韓事件等々です。数百人にもおよぶ被逮捕者が出て、府下一円に分散留置され、被疑者との接見は、少数の弁護士で困難を極めました。毛利与一、佐伯千仭弁護士らの協力を得て、拷問を許さないたたかい、勾留理由開示公判、証拠開示のたたかいなど、公安事件に忙殺された時期でした。

 上記の吹田事件は、52年6月に行われた朝鮮戦争2周年の集会とデモが、騒擾罪、威力業務妨害として弾圧されたもので、198名の逮捕者が出たものです。一審は完全無罪、控訴審でも騒擾罪は全員無罪で確定しました。また枚方事件は、吹田事件と同じ日に、同様に反戦デモが放火未遂、爆発物取締罰則違反で弾圧された事件です。

2、事務所設立

 1954年2月、東中は加藤法律事務所から独立をし、北区兎我野町の東神ビルの2階に「東中法律事務所」を構えました。現在の関西合同法律事務所の前身の誕生です。同ビルの2階の6坪の事務所に、労働法律旬報社関西支社との共同での事務所でした。ちなみに、同年4月には青法協が結成されています。

 このビルには、後に亀田得治法律事務所、東中と同期の古川毅弁護士や黒岩弁護士の事務所も入り、1956年には民主法律協会(民法協)の事務所も東中事務所内にできて、あたかも民主的法律センターの根拠地のような状態でした。これを東神ビルグループと称する人もいました。民法協は、大阪を中心とする関西の労働弁護士、労働法学者、労働組合などが結集した団体です。

 このころ東中は、前記のような公安事件に忙殺されていましたが、大阪総評がしだいにたたかう労働組合にかわりつつあるなかで、労働組合に対する弾圧、首切りが続発し、労働事件でも法廷闘争が展開されるようになりました。1954年、大阪証券取引所に労働組合が結成され、資本主義の牙城が労働争議の舞台となりますが、組合幹部の解雇、ストとピケに対する立入禁止の仮処分、そして警察の介入による刑事弾圧という、当時の「三位一体の攻撃」の典型のような争議でした。

 上記のように、1956年には民法協が結成されますが、結成直後は、57年に結成された総評弁護団の常任幹事であった東中がその半専従のような状態となりました。これによって、東中は全逓、全国税、国労、日教組などの事件を手掛けるようになり、事務所はしだいに労働弁護士の事務所という性格を強めていきました。

3、共同事務所へ

 1957年4月には石川元也弁護士が入所し、東中法律事務所は共同事務所への第一歩を踏み出します。

当時大阪では、共同事務所はめずらしく、ほかには石川弁護士と同期の橋本敦弁護士が加わった亀田事務所くらいでした。57年5月には松川事件の第1回現地調査があり、これに加わった石川弁護士は、松川事件弁護団に加わることになります。また、東中は愛媛の勤評闘争に支援に入るなど、全国をまたにかけての活動が始まりました。しばらくは、「高知の土佐製紙で11人ほど解雇された。来てくれ」という調子で、西日本全体の労働事件や弾圧事件に責任を負っていました。

 先に触れた枚方事件は、東中が主任弁護人で、その最終弁論が58年秋から59年の春にかけておこなわれましたが、東中の「抵抗権」の主張は、戦後裁判史をかざる弁論と評価されています。東中は、この弁論の準備のなかで肋膜をわずらい3か月休職します。

 1958年4月には小牧英夫弁護士が入所、陣容は次第に充実していきます。また亀田事務所には、正森誠二弁護士も入ってきて、この東神ビルには、亀田得二弁護士を入れると、後の国会議員が6名いたことになります(橋本、正森、後に入ってくる荒木、野間)。同年7月には民法協が独立した事務所を構えます。

 58年には、日教組の勤評反対の休暇闘争、全逓や国労の時間内職場大会など、官公労の実力行使が打ち出され、スト権奪還に向けたたたかいの第一歩が踏み出されました。マッカーサーによりスト権が奪われてから10年目にしての大規模な闘争でした。これに対して政府は違法ストだとして猛烈な弾圧をかけてきました。勤評闘争では、事務所は大阪、和歌山、京都、高知を受け持ち、大教組だけで4000名の任意出頭に対応しました。大教組の事件は64年に「地公法の争議禁止は憲法違反、全員無罪」の画期的な判決を勝ち取っています。また、全逓大阪中郵事件では、大阪ではじめての勾留請求却下を勝ち取り、はじめての証拠開示命令を得ています。

 また、このころの中小企業における労働事件の特徴は、労働組合の存在そのものを嫌悪し、破壊するために、企業そのものを倒産させるというものでした。大田鉄工企業閉鎖事件(56年)では、企業の解散決議そのものが不当労働行為にあたるとの裁判所の判断を取っています。

 小牧弁護士が入所した年に、白山丸事件が起こります。訴因の特定の問題で、刑事訴訟法の教科書にも出てくる有名な事件です。これには石川弁護士と小牧弁護士、東京の青柳弁護士が担当しました。

 また、58年には税金「虎の巻」事件が起こります。全国税労働組合の執行委員である税務職員が、推計課税のための内部文書「虎の巻」を大商連事務局に見せた行為が秘密漏泄罪にあたるとして起訴されました。以後、この事件は約20年にわたって裁判闘争が行われ、最後は最高裁をして、国家公務員法にいう秘密とは実質的な秘密であるとの判断を勝ち取りました。

 1959年には、宇賀神直弁護士と荒木宏弁護士が入所し、共同事務所としての基盤が整います。この創設期の石川、小牧、宇賀神、荒木弁護士は、後に「東中法律事務所の四天王」と呼ばれるようになります。

 事務所開設以後、労働事件や弾圧事件以外で多かったのは明渡請求事件や借地借家などの地代家賃の値上げ事件です。敗戦後の住宅不足のなかで、住居をもたない人々は、軍事工場跡地、国鉄(現在のJR)用地、国有地あるいは民間所有地に住みつきましたが、これらの人々に対する明渡請求事件が続発しました。抗弁も主張もなりたちにくいなかで、立退きが生活破壊につながることを主張し、わずかな糸口を見つけ、社会的妥当性を求めて様々な工夫が行われました。

 また、59年に起こった学大スパイ事件、60年に起こった大阪証券労組の安保デモ事件は、肖像権が争われ、超法規的違法性阻却事由による無罪が勝ち取られて、判例的にも注目をされました。

 1960年には、松本健男弁護士、上田稔弁護士が入所します。この年はあの三井三池闘争が起こった年です。石炭エネルギーの切り捨て政策のなかで、総資本対総労働のすざまじい激突がおこります。事務所も支援闘争に参加します。この年は60年安保の大きなたたかいが繰り広げられた年でもあります。

 60年12月には所得倍増計画が発表されるなか、企業の集中・合併が繰り返されるようになり、不採算部門はどんどん切り捨てられました。スクラップアンドビルド政策です。以後、大阪の地場産業はどんどん切り捨てられ、倒産件数はうなぎのぼりに上昇し、他方労働界も労使協調路線へと右傾化が進み、たたかう労働組合に対する攻撃はいっそう強まりました。内田洋行事件、全自運関扇運輸事件などの企業閉鎖とのたたかい、刑事弾圧による組合破壊とのたたかいなどです。

 その後も、事務所の弁護士は拡充を続け、1961年の小林保夫弁護士、62年の野間友一弁護士の入所で、弁護士の数は東中を含めて9名となりました。61年は、政暴法(政治的暴力行為防止法案)反対運動が盛り上がりました。政暴法は治安維持のため、政治的運動を取り締まりの対象とするもので、言論表現の自由を侵害するものでしたが、国民的運動の結果、62年には廃案に追い込みます。事務所はこのような政治的課題についても運動の先頭にたちました。1962年6月、東中は初めて参議院選挙に立候補しますが、結果は14万票を得たものの6位で落選しました。

4、事務所綱領の確立

 1963年には、東垣内清、仲重信吉、脇山弘、脇山淑子の各弁護士が参加して13名の事務所になりますが、この年、野間弁護士は和歌山に地域共同事務所を開設すべく独立しました(後の和歌山合同法律事務所)。野間弁護士は後に72年、衆議院議員選挙に当選し、その後5期にわたり衆議院議員をつとめました。63年には、事務所の場所が兎我野町の山菱ビルにうつりました。

 63年には、はじめて事務所総会が泊まり込みでもたれました。また、事務所の運営委員会ができ、事務所研修も行われるようになって、運動課題に追われるのではなく、組織的に事務所運営を行って、関西の運動に貢献できる事務所づくりがめざされるようになりました。

 1964年には高村文敏、三好泰祐の2名の弁護士が参加しますが、脇山弘、脇山淑子弁護士が独立して山形に事務所を開設しました。64年はベトナム戦争が始まります。

 1965年には酉井善一弁護士が入所。酉井弁護士は、入所直後の8月から民法協の専従事務局長になります。

 65年5月26日、「東中事務所ニュース」が創刊されます。この創刊号には、創刊にあたっての言葉が掲げられ、当時、日本共産党の参議院議員であった須藤五郎氏から創刊に寄せてメッセージが寄せられています。創刊号には、「東中さんを励ます法曹の会」が開かれたとの記事が載っています。この会には、当時大阪弁護士会850人の弁護士のうち227人が参加していたと記されています。以後、事務所ニュースは第6号までは年2回の発行で、67年の第6号以降は、おおむね1〜3か月に1回の発行でした。 65年、東中が再び参議院選挙に立候補しますが、22万票で落選します。

 64年には、志賀問題が起こり、「日本のこえ」に賛同して、事務所を退所する弁護士や事務局がでました。これがきっかけで、事務所の基本的なよりどころをどのように考えるべきかの議論が積み重ねられるようになり、1966年4月の事務所総会で、事務所綱領と活動要綱が確定されます。この綱領は、字句の修正の議論はあったものの現在も維持されており、事務所と所員の最低限の一致点として、あるいは活動の目標として、規範的意義を持ち続けています。

 このような事務所運営の形態や事務所綱領は、全国の先駆けとして、自由法曹団の交流会などを通じて、他の地域や大阪の他の法律事務所にひろがっていきました。その意味で、事務所は日本におけるいわゆる

地域事務所の原型としての姿を、模索をしながら形作っていったのです。

 この64年から66年にかけては、大阪ではビラ貼り弾圧が猛威を振るいます。45名の被告人が府、市広告物条例違反で起訴されました。これは違憲判決、限定適用無罪判決が相次ぎ、条例そのものが改正される結果となって、以後の事件はすべて免訴となりました。また戸別訪問などの公職選挙法違反での弾圧事件も次々と起こりましたが、出雲市矢田・植田事件で戸別訪問禁止規定の違憲、無罪判決を勝ち取りました。

 64年には小貫事件が起こっています。税務調査に小貫さんが立会いしたことを、公務執行妨害罪、暴行罪で起訴したものです。63年から66年にかけて、川崎民商事件や中野民商事件など多数の民商に対する弾圧事件が起こっていますが、小貫事件も、63年に木村国税庁長官が「民商を3年以内につぶしてみせる」と宣言し、実行に移した民商の組織壊滅を狙った弾圧事件のひとつです。これらの事件は、逆に税務行政を裁く事件へと転化し、全国各地で、憲法解釈にも及ぶ画期的なすぐれた質問検査権に関する判例を確立していきます。小貫事件では、証拠開示命令を認める最高裁決定を導きだします。事件は、暴行そのものがなかったとして無罪となっています。

 借地借家をめぐる事件では、明渡しを求める正当理由を厳格に解し、賃料不払いによる解除も制限的に解釈する法理を確立していきましたが、文化住宅が無秩序に建築され、量的には住宅が確保されてきたことからか、このころから裁判所は、明渡しの正当理由を大幅に緩和する傾向を示し始めました。また、賃料増額訴訟も増加します。特に71年の地代家賃統制令の改定では、2.8倍の大幅増額となって、便乗増額が多発しました。これらの借地借家事件には、事務所のすべての弁護士がかかわり、最も事務所のなかではポピュラーな事件の類型でした。

 1966年には石橋一晁弁護士が入所しますが、三好泰祐が独立して松山に事務所を構えます。66年には、石川弁護士が、創立45周年を迎えた自由法曹団大阪支部の幹事長に就任します。

 1967年には、河村武信、永岡昇司、鈴木康隆の3名の弁護士が入所、他方、荒木弁護士が堺市に事務所を開設し独立しました。荒木弁護士は、後に72年、衆議院議員となり、2期衆議院議員をつとめています。

 このころ日本は構造的不況にむかっていました。資本のスクラップアンドビルド政策は、産業の再編成、中小企業の系列化となって現れ、そのなかで企業の倒産、工場閉鎖による全員解雇が相次ぎ、数々の争議が起こりました。太田鉄工、松風陶業、上田家具、新守口等の自動車教習所、宇山カーボン、毎日放送など数えきれません。マル生運動とのたたかいや、組合の分会長を殺害して組合の破壊を画策した運輸一般片岡運輸事件もありました。

 1968年には、田中清和、井上祥子、林伸豪弁護士ら3名が入所。東中は、三度めの参議院選挙に立候補しています(36万票を得るも落選)。この年には、正森誠二弁護士が、議員に立候補することを前提に正森法律事務所(後のきづがわ共同法律事務所)を立ち上げるということで、これを支援するため、小林保夫弁護士、鈴木康隆弁護士が同事務所に移籍しました。

5、東中、国会へ
 1969年には、田中庸雄、須田政勝、並河匡彦弁護士ら3名が入所。また、高村文敏弁護士が、香川県高松市に事務所を開設するために独立をしています(後の高松合同法律事務所)。東中は、同年12月に行われた衆議院選挙に大阪2区で立候補し、初当選。以後10期30年6か月にわたる衆議院議員としての生活のスタートをきります。70年1月30日に発行された「東中事務所ニュース」第21号には、東中の当選を祝う記事が満載です。

 69年には、ロート製薬を相手に、労災訴訟が提起されます。労災認定を受けたあと、会社を相手に損害賠償請求を行ったもので、裁判が広く職場の労働安全条件の改善に結びついていくことが確信される事件となりました。このようなたたかいは、武田薬品事件へと受け継がれていきます。

 同じく69年には、日本生命樋口事件で、夫婦を別居させるような配転は無効との判決が出ています。これによって、単身赴任にはやや歯止めがかかりましたが、単身赴任問題では、82年に日新化学岩城配転事件で、逆に単身赴任を肯定する判決が出、以後、単身赴任そのものを争う事件は敗訴が続いています。

 1970年には、寺沢勝子弁護士、戸谷茂樹弁護士が入所します。他方、小牧弁護士が神戸に事務所を構え、宇賀神弁護士、並河弁護士が天王寺法律事務所を開設して独立をしました。また、林伸豪弁護士が徳島に事務所を構え独立しています(後の徳島合同法律事務所)。

 70年には、最高裁による青年法律家協会裁判官の脱会工作が行われ、71年には宮本裁判官の再任拒否、阪口修習生の罷免問題がおこるなど、司法の分野での攻撃が強まります。他方、71年には黒田革新府政が誕生、72年には日本共産党が総選挙で40議席を得るなど、革新勢力の高揚期に入っていきます。

 1971年には、海川道郎弁護士、野村裕弁護士、山田幸彦弁護士ら3名が入所。田中清和、田中庸雄両弁護士が府会議員に初当選し、事務所は国会議員1名、府会議員2名を擁する事務所となります。以後、田中清和弁護士は3期12年間、田中庸雄弁護士は2期8年間、府会議員をつとめます。

 部落解放同盟による暴力・利権あさりは、69年の「矢田問題」を契機に、様々な事件を引き起こすようになります。72年には、吹田二中事件(解同の教育私物化に反対する教師に対する暴力的な糾弾行動、ならびにこれに屈しない教師を異動)、73年には、大阪市の職員である橋本せつ子さんに対する事件(解同の方針に従わない同和事業指導員であった橋本さんに対し、なかば監禁状態での「研修」を強要し、全く異職種

である消防局への出向)、大阪市などの「窓口一本化」訴訟などです(あらゆる同和行政を解同を通じてしか

受けられなくし、解同の方針に従わないものには、同じ部落住民であっても行政の便益が与えれないという

もの)。これらの解放同盟とのたたかいは、事件の現場で、弁護士が暴力を受けたり監禁をされるということ

もありましたし、弁護士の自宅周辺に「差別弁護士」と書かれたビラを貼られたこともあり、文字通り体をはっ

たたたかいでした。

 71年には三井造船末浪事件で、結婚出産退職制は憲法14条27条に違反し、公序良俗違反で無効との

判決を勝ち取りました。女性の働き続ける権利を認めたものとして評価されます。裁判所は、「女子従業員は

事務補助業務こそ最適という何ら合理性のない予断と偏見を持つ会社の態度こそ責められるべき」と断じま

した。

 1972年には、村山眞弁護士が入所。井上祥子弁護士が、愛知県半田市に事務所を開設して独立します

(知多法律事務所)。また、1973年には、守井雄一郎弁護士が入所し、大賀良一弁護士が島根県出雲市

に事務所を開設しています。

 この72年には、災害事件が多発しました。大東水害訴訟は72年に発生、73年に訴訟提起、千日デパー

トビル火災事件も72年に発生、73年から75年にかけて訴訟提起、北陸トンネル列車火災事件も72年に

発生、74年の訴訟提起です。これらの事件でも、事務所の弁護士は中心的な役割を果たしました。

6、関西合同法律事務所へ

 1974年は、事務所創設20周年でした。10月のレセプションには600名の参加があり、「20年のあゆみ」

を発行しました。事務所はこれを機に、名称を「東中法律事務所」から「関西合同法律事務所」に変更しました。名称は所員一同が智恵を絞り、「合同」というのが自由法曹団の本流だということで、「関西合同」に決まりました。これにともない、75年3月8日発行の事務所ニュース39号から、タイトルが「関西合同法律事務所ニュース」に変更されました。これまで、必要に応じて1〜3か月に1回発行されていた事務所ニュースは、76年1月の40号から、基本的に1月と7月の年2回の発行に定着します。

 74年には峯田勝次弁護士、西本徹弁護士が入所しています。また、この年には、河村武信弁護士が民法協の事務局長に就任しています。

 73年のオイルショックを経たあとの不況期は、労働運動にとっても、大企業の労働者支配が確立する時期でした。それまでも労使協調路線をとっていた大企業の組合は、以後は企業の労務対策部とでもいうべき機能を果たすような状態となります。

 このような労務政策は、他方で階級的、民主的立場にたつ活動家に対する差別と人権侵害をともないました。これに抗して、差別賃金の是正や人権侵害に対する慰謝料などを求めて、74年には松下電器、日立造

船、77年には川崎重工、78年には住友電工に対する訴訟が提起されています。これらの訴訟は和解という形で、当該事件が解決されるだけでなく、職場全体での差別の是正につながりました。

 企業閉鎖とのたたかいのなかでは、争議を解決する能力を持つ親会社などに対して解決を迫るため、法人格否認の法理や、不当労働行為における使用者概念の拡大が勝ち取られていきました。75年におこった

杉本伸線閉鎖全員解雇事件では、背景資本である三井物産を追いつめて勝利を勝ち取っています。

 1975年には、西枝攻弁護士が入所。山田幸彦弁護士が名古屋に事務所を開設して独立をしました。

 1976年には、市野勝司弁護士が入所します。石川弁護士が自由法曹団本部幹事長に就任し、また海川弁護士が団大阪支部事務局長に就任しました。

 1977年、間瀬場猛弁護士が入所。酉井弁護士が岸和田市で事務所を開設して独立しました(後の阪南合同法律事務所)。

 1978年には、上山勤弁護士が入所しました。この78年は西淀川公害訴訟の第1次提訴が行われた年で、上山は、さっそく弁護団に加わり、中心的な役割をはたします(詳しくは後半20年の取組みを参照)。事務所では、富山イタイイタイ病事件(72年、解決)、森永ミルク中毒事件(74年、解決)、大阪国際空港公害訴訟(75年、大阪高裁で完全勝利判決)、北陸スモン病損害賠償請求事件(79年、和解)などの公害、薬害訴訟に取組みました。

 78年には、一定の条件があれば弁護人がいなくても刑事裁判を行うことができる、いわゆる「弁護人ぬき裁判法」が提出され、これに反対する運動が全国で取り組まれました。事務所でも街頭宣伝や国会要請行動に取り組み、法案に反対する模擬裁判にも参加しました。その結果、同法案は79年に廃案となりました。

 78年には、大阪市交通局の男女差別定年制を違法とする訴訟で和解が成立しています。以後、女性は33歳とされていた定年が55歳に引き上げられました。81年には日産プリンス事件で、最高裁が男女差別定年制に違法、無効とする判断がだされており、企業はこのような男女差別を正面から行うことができなくなりましたが、以後、嫌がらせによる退職強要などの事件が続いています。

7、黒田革新府政の転覆

 1979年には、野村裕弁護士が滋賀第一法律事務所へ、市野勝司弁護士が和歌山合同法律事務所へ移籍しました。また、正木みどり弁護士が入所しました。79年には2期8年続いた黒田革新府政が転覆させられ、反動攻勢が強まります。

 さらに、東垣内弁護士、永岡昇司弁護士、戸谷弁護士が北河内方面に責任を負う京橋共同法律事務所を開設するために独立しました。

 79年には、シャルム中津というマンションの住人が起こした建築禁止の仮処分の決定がでました。日照権を根拠に、三井不動産が建築中のマンションの7階以上の建築を差し止めるものでした。住宅の高層化が進むなかで、日照権などの生活環境を守るために、住民や議員、弁護士が共同してたたかいをすすめる運動パターンができあがりました。また、71年に起こった事件ですが、大阪市住宅供給公社が建築した中津コーポでは、入居直後にすぐ横を高速道路が建築される計画が発表され、公害審査会に調停を申し立て、結果的には道路計画は棚上げとなるという成果をあげています。

 1980年には、関戸一考弁護士が入所します。また、河村弁護士が高槻市長選挙に立候補しましたが、惜敗しました。

 このころから、サラ金被害が激増します。事務所の日常の事件の多数は、しだいに借地借家問題からサラ金問題へと移っていきます。当時、サラ金は出資法上は年100パーセントを超える金利を取ることが許されており、現在でのヤミ金のような過酷な取立を行っていました。その結果、自殺、一家離散、果ては犯罪に走るという事例が相次ぎました。事務所は、すべての弁護士が、消費者問題としてのサラ金問題に立ち向かうことになり、処理方針としては自己破産や任意整理となりますが、法的ルールに従わない業者が多く、弁護士だけでなく事務局も、ヤクザのようなサラ金業者と対峙していました。

 1981年には、田窪五朗弁護士、岡本一治弁護士が入所。間瀬場弁護士が団支部事務局長に就任しました。

 このころには、まだ過労死という言葉はありませんでしたが、疲労が蓄積して死亡に至るケースは存在しました。労働省(当時)の見解は、災害的要素がないものはほとんど労災と認められていませんでした。しかし、事務所では上山、正木が中心になって、高槻交通の運転手が過労死したケースで、災害性の希薄なケースで労災の認定を勝ち取りました。当時は急性死とよばれていましたが、81年には現在の過労死連絡会が発足し、その後、「過労死」という言葉が生み出されて、世界の共通語になっています。

 1957年の石川弁護士の入所以来、毎年1名以上新人弁護士が入所していましたが、1982年はじめて新人弁護士が入りませんでした。82年には、拘禁二法案が国会に提出されます。この法案は、93年の第3次法案の廃案まで、10年を超える阻止闘争となります(詳しくは後半20年の取組みを参照)。82年8月には、事務所が現在の場所(西天満)に移転しています。

 1983年には、斉藤真行弁護士、谷田豊一弁護士2名が入所しました。また、西本徹弁護士と岡本一治弁護士が、阪南合同法律事務所の強化のため、同事務所へ移籍しました。

 1984年は、事務所創立30周年でした。15名の弁護士と13名の事務局でこれを迎えました。9月には、ともにたたかってきた各界の来賓を招き、レセプションを550名の参加で行いました。また、これまでの事務所のとりくみを整理した「30年のあゆみ」を出版しました。30周年までに送り出した弁護士32名になっています。 もどる1954〜1984 設立から30年のあゆみ 


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