和歌山県民にほとんど知らてない史話 |
投稿者: 鶴寿丸 投稿日時: 2023/5/23 20:40:56 紀州ゆかりの歴史上で最も大規模な戦争は何か?といえば、 天文11年の河州侵攻戦だろう (西暦1542年、あの徳川家康が生まれた年の出来事) 敵は高屋城(羽曳野市)の木沢長政、攻めるは守護大名・畠山稙長 稙長は本拠の河内を奪還するため、また将軍足利義晴の要請もあり、雌伏してきたここ紀伊広城から総勢3万人の兵を集めて総攻撃、見事に打ち破り勝利した この軍勢の内分けは、高野粉河根来の衆徒1万、雑賀熊野などの国人衆1万、湯河玉置山本氏などの奉公衆1万、計3万だったと伝わる それだけの大軍勢、また地理的に戦意がバラバラの紀州人が一国まとまり、どこかと戦った歴史などは他に例がなく、この時だけだ それらを糾合し、団結可能としたのが国主・畠山稙長の人望、カリスマ能力だったと中世の研究者からは高く評価されており、彼は山陰の尼子氏と連携して室町幕府の再編成、天下を握る野望があった?とも言われる(自筆の書に「天下の覚えに候」とあるのが、天下を取る意志の表れとの解釈) しかしその僅か3年後、稙長は41歳(36歳説も有)で急死、畿内の情勢は混沌化する 畠山家は家臣の守護代遊佐氏の専横もあり凋落、二代あとの畠山高政は奮闘し足利幕下に参画したが、続く畠山秋高は反信長派の遊佐により暗殺され、その次の畠山貞政は雑賀衆らに推戴され秀吉軍と対抗したものの惨敗消滅、1585年紀州の中世は終焉した(子孫は後に江戸幕府の高家旗本として復活、畠山基玄は将軍徳川綱吉の側用人に抜擢されるなどの光栄もあるが、紀州とは既に縁切れ) もし稙長公が長生してれば、紀伊は元より河内和泉大和まで治める屈指の大名となり、足利幕府を支える近畿勢力として三好織田の台頭は許さず室町時代は継続、歴史は大きく違ってたかも知れない 余談を言えばこの時代、戦国紀州を代表する国人は湯河直光・直春、宮崎直定など直の字を持つ者が多く、これは稙長の稙字の半分を偏諱して与えられたと考えられており、この太守と忠誠度の高い関係性からも、畠山稙長の名将ぶりが窺える |