Re: 和歌山城 |
投稿者: 名無しさん 投稿日時: 2023/12/17 19:37:26 <城、その「美しさ」の背景>第63回 和歌山城 家康の宿願を実現 将軍も送り出した御三家の名城 https://artexhibition.jp/topics/features/20231217-AEJ1753909/ 和歌山を支配するのは徳川家康の悲願だった 紀伊(和歌山県)の和歌山城(和歌山市)は慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶことで、その役割が大きく変わった城だ。同5年(1600)の関ヶ原合戦後、37万6000石の領主としてここに入城したのは、豊臣系大名でありながら、東軍に属して軍功を上げた浅野幸長だった。 関ヶ原合戦で徳川家康は、徳川軍の主力を率いた嫡男の秀忠が遅参した影響もあり、豊臣系大名たちの軍功のおかげで勝利した。このため、西軍に属した大名から没収した石高は、当時の全国総石高の3分の1を超える630万石におよんだが、その8割を超える520万石余りは豊臣系大名に分配するしかなかった。その結果、京都より西国は大半を豊臣系大名が治めることになり、徳川の親族や譜代をひとり配置できなかった。家康が当初、西国は豊臣家にまかせて不介入の姿勢を示したとも判断でき、「二重公儀体制」と呼ばれるゆえんである。豊臣氏の直轄地である和泉(大阪府南西部)と接する紀伊(和歌山県)も同様だった。 しかし、大坂の南に位置する和歌山は海上交通の要所で、瀬戸内から西を支配する要となる。徳川の支配を西国に行き届かせるためには、ここを確実に押さえる必要がある。そこでまず、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615)4月、家康の九男の名古屋城主、義直が浅野家の姫を娶った。そもそも家康が大坂夏の陣に向けて出陣したのは、義直と浅野家の婚儀に出席する名目だったのである。 このように戦略上重要な地域であったため、大坂の陣後は徳川家の領土になった。二代将軍秀忠は元和5年(1619)、豊臣恩顧の大名の筆頭だった広島藩主の福島正則を改易にしたのち、後釜として浅野長晟を広島に転封。和歌山には家康の十男の頼宣を55万5000石で入れて、西国の押さえとした。むろん、それは家康の悲願だった。 こうした歴史を、遺構や復元建造物などをとおして体感できるのが和歌山城である。 豊臣、浅野、徳川の時代を石垣で確認 和歌山城の歴史は、豊臣秀吉による天正13年(1585)の紀州攻めの軍功で、和泉と紀伊を加増された秀吉の弟、秀長による築城からはじまる。当時、吹上ノ峰と呼ばれたこの場所を城地に選んだのは秀吉だという。ただ、秀長は本拠の大和郡山城(奈良県大和郡山市)から動こうとせず、天空の城で知られる武田城(兵庫県朝来市)の城主だった家老、桑山重晴が城代として入城した。 和歌山城は地盤が堅固なこともあるのだろう、豊臣時 |