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1 | 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/23 20:52
[返信] [編集] [全文閲覧] 文化財にも指定されていない建物なんて必要ですか? 和歌山城の耐震化 めど立たず 和歌山市のシンボルとして多くの観光客が訪れる和歌山城の天守閣が、建設されて60年近くになります。熊本地震などを受けて専門家からは詳しい耐震診断などの必要性を指摘する声が上がっていますが、今のところ、めどは立っていません。 昭和20年の空襲で焼失した和歌山城の天守閣は、その13年後に鉄筋コンクリート造りで再建され、今では年間に約20万人が訪れる和歌山市のシンボルとして親しまれています。 建設から60年近くになりますが、これまで一度も耐震診断は行われず、ことし4月には同じころに建てられた熊本城が地震で大きな被害を受けたことから、専門家からは、少なくとも詳しい耐震診断を実施するべきだという声が高まっています。 和歌山県建築士会の中西重裕副会長は、「南海トラフの巨大地震が想定されるなか、耐震診断と建物の補強について早急に考える必要がある。和歌山市のシンボルの安全を確保することが重要だ」と話しています。 これに対し、和歌山市の和歌山城整備企画課は、耐震診断の実施に向けてここ数年、財政部局に対して、約1800万円の予算要求を続けていますが、認められてきませんでした。 市の財政課との協議のなかで、耐震診断や、改修工事について財源の見通しが立たず、その後の城の整備計画も明確になっていないため、厳しい財政事情を踏まえて、予算化は見送られてきたということです。 和歌山城整備企画課の山路都子課長は、「天守閣については、文化財の指定を受けていないため耐震診断の費用を捻出することが難しい。国や県などと相談しながら、検討を進めたい」と話しています。 昭和6年に建てられた大坂城の天守閣は、和歌山城と同じように鉄筋コンクリート造りですが、平成9年に国の登録有形文化財になりました。 このため、耐震補強などを含めた修理などが行われる際には、国から一部、補助が出るということです。 一方の和歌山城の天守閣について、和歌山市は将来、木造で建て替えたいという構想も持っているため、はっきりとした方針を示していません。 このため、すでに建設から50年以上がたち、登録有形文化財になる可能性はあるものの、検討は進んでいないのが現状です。 文化庁では、このままの状況では、耐震の診断や補強などを行う場合にも国の補助の対象にはならないとしています。 老朽化が心配される和歌山城の天守閣をどうするのか。 早急な議論が必要です。 08月23日 11時24分 http://www.nhk.or.jp/lnews/wakayama/2044962271.html |
2 | Re: 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/23 21:04
[返信] [編集] [全文閲覧] 必要です!! お城が存在しない県はないです。 |
3 | Re: 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/23 21:33
[返信] [編集] [全文閲覧] 「昭和20年の空襲で焼失した和歌山城の天守閣は、その13年後に鉄筋コンクリート造りで再建されたもの」であって、江戸時代からある訳ではないですよね。 修復されたものではなく、再建されたもの。 耐震補強すらできずに放置されているなら、尚更。 |
4 | Re: 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/23 23:40
[返信] [編集] [全文閲覧] 紀州徳川家の最も重要な遺産であるから金があるないの問題ではない。なんとしてで耐震補強をして絶対に後世に残す。本来なら木造で立て直すべきだ。知事以下の県職員や県会議員らの有志に給料を5年間ほど我慢してもらえってその金を使うという方法もある。栄えある記録として県史に永遠に残されるであろう彼らの勇断を期待したい。 |
5 | Re: 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/24 2:01
[返信] [編集] [全文閲覧] 市民会館建て替えるのなら、城の耐震に金かけろと 言い出すのが出て来ているのか、それともNHKが煽っているのか どっちかだな。 |
6 | Re: 和歌山城って必要? |
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名無しさん 2016/8/24 9:09
[返信] [編集] [全文閲覧] 天守も大切だけど、石垣のほうがよっぽど貴重で大切。 総石垣の城で圧巻の城のひとつですね、和歌山城。さすがの天下御三家の居城。 三の丸等が官庁街、オフィスビルになっててもったいない。 |
7 | Re: 和歌山城 |
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名無しさん 2023/12/17 19:37
[返信] [編集] [全文閲覧] <城、その「美しさ」の背景>第63回 和歌山城 家康の宿願を実現 将軍も送り出した御三家の名城 https://artexhibition.jp/topics/features/20231217-AEJ1753909/ 和歌山を支配するのは徳川家康の悲願だった 紀伊(和歌山県)の和歌山城(和歌山市)は慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶことで、その役割が大きく変わった城だ。同5年(1600)の関ヶ原合戦後、37万6000石の領主としてここに入城したのは、豊臣系大名でありながら、東軍に属して軍功を上げた浅野幸長だった。 関ヶ原合戦で徳川家康は、徳川軍の主力を率いた嫡男の秀忠が遅参した影響もあり、豊臣系大名たちの軍功のおかげで勝利した。このため、西軍に属した大名から没収した石高は、当時の全国総石高の3分の1を超える630万石におよんだが、その8割を超える520万石余りは豊臣系大名に分配するしかなかった。その結果、京都より西国は大半を豊臣系大名が治めることになり、徳川の親族や譜代をひとり配置できなかった。家康が当初、西国は豊臣家にまかせて不介入の姿勢を示したとも判断でき、「二重公儀体制」と呼ばれるゆえんである。豊臣氏の直轄地である和泉(大阪府南西部)と接する紀伊(和歌山県)も同様だった。 しかし、大坂の南に位置する和歌山は海上交通の要所で、瀬戸内から西を支配する要となる。徳川の支配を西国に行き届かせるためには、ここを確実に押さえる必要がある。そこでまず、大坂夏の陣直前の慶長20年(1615)4月、家康の九男の名古屋城主、義直が浅野家の姫を娶った。そもそも家康が大坂夏の陣に向けて出陣したのは、義直と浅野家の婚儀に出席する名目だったのである。 このように戦略上重要な地域であったため、大坂の陣後は徳川家の領土になった。二代将軍秀忠は元和5年(1619)、豊臣恩顧の大名の筆頭だった広島藩主の福島正則を改易にしたのち、後釜として浅野長晟を広島に転封。和歌山には家康の十男の頼宣を55万5000石で入れて、西国の押さえとした。むろん、それは家康の悲願だった。 こうした歴史を、遺構や復元建造物などをとおして体感できるのが和歌山城である。 豊臣、浅野、徳川の時代を石垣で確認 和歌山城の歴史は、豊臣秀吉による天正13年(1585)の紀州攻めの軍功で、和泉と紀伊を加増された秀吉の弟、秀長による築城からはじまる。当時、吹上ノ峰と呼ばれたこの場所を城地に選んだのは秀吉だという。ただ、秀長は本拠の大和郡山城(奈良県大和郡山市)から動こうとせず、天空の城で知られる武田城(兵庫県朝来市)の城主だった家老、桑山重晴が城代として入城した。 和歌山城は地盤が堅固なこともあるのだろう、豊臣時 |
8 | Re: 和歌山城 |
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名無しさん 2023/12/19 19:35
[返信] [編集] [全文閲覧] 和歌山城、徳川御三家の城たる壮大さと石垣の美 https://news.yahoo.co.jp/articles/2a10b69fded9637cac4ef9da5dd688b5eab0086f |
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