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1 | 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
紀伊守護 2020/5/2 21:26
[返信] [編集] [全文閲覧] 室町時代(広城&広館) |
2 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2020/5/7 12:20
[返信] [編集] [全文閲覧] 湯浅〜広川で言われるのは醤油と濱口梧陵のみ。 紀中地方には、湯浅党や守護畠山氏ら中世期のサムライの痕跡も豊富だが、殆んど顧みられないのは勿体無いね。 |
3 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2020/7/3 20:33
[返信] [編集] [全文閲覧] 和歌山城が出来る前にあった岡(山)城は、畠山高政の支城。 (雑賀衆の岡氏が自領を提供したと考えられる) その後、羽柴秀吉が紀州制覇し、政庁を和歌山に移転したため、守護所広川の役割は完全に終焉した。 |
4 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2020/7/3 21:49
[返信] [編集] [全文閲覧] >紀中地方には、湯浅党や たまに湯浅悪党が収賄や横領で新聞のっていますね。 |
5 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
紀伊藩主 2020/10/28 16:57
[返信] [編集] [全文閲覧] >広川の役割が完全に終焉 広館跡に、江戸時代の紀州徳川の別邸・広御殿が存在した |
6 | 津浪祭開催 |
ゲスト |
名無しさん 2020/11/5 15:40
[返信] [編集] [全文閲覧] 引用:
今日は、津波防災の日 町民は幕末にしか関心がないんです |
7 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2020/11/20 19:55
[返信] [編集] [全文閲覧] 隣の湯浅城跡が、国の史跡に指定されたのは、めでたいが… 広城跡の方は無理なんか… |
8 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2021/3/31 18:20
[返信] [編集] [全文閲覧] >紀州徳川の別邸・広御殿が存在 その跡に建った養源寺がテレビ和歌山で紹介 |
9 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2021/5/8 17:34
[返信] [編集] [全文閲覧] 今じゃワクチンの配分すら後回しにされる寂れた町 |
10 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2021/6/25 23:04
[返信] [編集] [全文閲覧] 町会議員を副町長に指名、議会で否決、そらむちゃくちゃやわ。 |
11 | 広川町大丈夫 |
ゲスト |
名無しさん 2021/6/25 23:10
[返信] [編集] [全文閲覧] 広川町って、何でもありの行政やなぁ。否決した、議員さんは立派やわ。町長と、その議員、アホだね。職員もむちゃくちゃや言うてたわ。 |
12 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2021/11/6 15:37
[返信] [編集] [全文閲覧] 2>隣国阿波の三好一族が最近にわかに注目株 そこと同盟を結んでいた時期もあるのが紀伊守護の畠山一族(晩期では対立) 三好関連の書籍には何度も登場するから補完可能 近刊の中公新書では尚順、稙長、政国、高政、秋高や、守護代遊佐長教の動向に記述が有 |
13 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2022/8/25 20:52
[返信] [編集] [全文閲覧] |
14 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
紀伊守 2022/9/3 15:07
[返信] [編集] [全文閲覧] 畠山二郎高政は猛将と称された武人、年齢的に武田信玄と上杉謙信の中間の世代にあたる戦国バリバリのサムライ 根来衆を動員して大和へ乱入、合戦したり、和泉で三好軍を破り城を奪回するなどの武勇伝もあり、上洛した織田信長から一目置かれ、将軍足利義昭の幕府下にも一時期参画、河内紀伊の本領安堵を勝ち取った巧者 院号は畠山一空と名乗ったが、晩年はキリシタンになったとも伝わる 和歌山県民にはすっとこ知られていないが、「紀州の戦国大名」だったと呼んでよい人物(→御屋形様と書かれた資料がはっきり残っている) 県や市がよくいう「紀州に大名はいなかった」表現は完全な語弊、低水準に配慮した誤り 有田市の岩室山こそが彼の最後の居城だった こんな有力な地元ゆかりの名門大名を等閑視するのは勿体ない極み、愚の骨頂というほかない |
15 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2022/9/19 23:59
[返信] [編集] [全文閲覧] 畠山稙長の書状展示中 https://hakubutu.wakayama.jp/exhibit/tegami2022/ |
16 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2022/9/25 21:43
[返信] [編集] [全文閲覧] 大河ドラマ鎌倉なんちゃらで、 紀州畠山の先祖話言うてたな |
17 | 広城 遺構図 |
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畠山 2022/9/28 17:35
[返信] [編集] [全文閲覧] https://ameblo.jp/tairasyouben/entry-12765605169.html 広城の遺構図です。 |
18 | Re: 広城 遺構図 |
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名無しさん 2022/10/7 21:42
[返信] [編集] [全文閲覧] >>16 直接の先祖じゃなく、鎌倉御家人畠山の未亡人が再婚した足利義純の子が家名を継承 約150年後に、その子孫(畠山義深)が北朝軍を率いて紀州に遠征、南朝軍を鎮め、その子(畠山基国)が紀伊守護大名に >>17 中世城郭はロマンあるね 和歌山県内には埋もれた山城が豊富 海南の大野城から広に守護所が移り、高城山に広城が築かれたのは畠山基国の頃、 麓に御殿(広館)ができたのは畠山政長(室町幕府管領)の頃と思われる |
19 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名島高城山 2023/2/19 22:45
[返信] [編集] [全文閲覧] 引用:
高政 https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B09C1QKTBZ/ref=ox_sc_saved_image_13?smid=A1RQLDMP57FCFE&psc=1&th=1 稙長 https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B09C78ZDC5/ref=ox_sc_saved_image_3?smid=A1RQLDMP57FCFE&psc=1 |
20 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2023/3/5 20:39
[返信] [編集] [全文閲覧] 引用:
県博、今は稙長の父畠山尚順(尚慶、卜山)と その敵対者だった畠山義就(義夏、嶽山)の2人が、 それぞれ紀伊国人の小山氏に贈った感状や書状を展示 |
21 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
ゲスト |
名無しさん 2023/3/15 13:33
[返信] [編集] [全文閲覧] 幕末明治に濱口梧陵翁が築いた広村堤防は有名だが、 実はその400年ほど前の室町時代に畠山氏が築いた「畠山石堤」というのも海側に現存している。 もはや城跡は草叢と化しているが、その石の堤だけはしっかりと、今でも紀伊守護大名畠山氏の痕跡として確認できる。 |
22 | 戦国紀州のキリシタン大名 |
ゲスト |
イースター 2023/4/9 12:54
[返信] [編集] [全文閲覧] 畠山高政(1527〜1576) 永禄年間、和泉久米田の戦いで三好長慶の弟の実休を撃破 知る人ぞ知る、日本初の鉄砲戦で敵将を討ち取った大将である(撃ったのは配下の根来衆) 墓は観心寺にあり「一空」の法名より禅宗への帰依が窺えるが、最晩年はイエズス会のバテレンより天主教の洗礼を受け、デウスを信仰したと伝わる(この特徴は豊後の大友宗麟に近似) 福音書に親しみ、キリストの復活祭を祝す…、そんな国守が在命していた秘話がこの和歌山にはあった さらに、その一空高政の没年に生まれた武将浅野幸長が約30年後、紀伊の太守として現れ、雑賀荘に「若山教会」を建てたほど、彼も一度は熱心な切支丹だった。まるで高政公に導かれたかのような奇遇である されど爾来、耶蘇基督の教えは固く禁令に その後の紀州藩侯(初代徳川頼宣は島原の乱でキリシタン討伐の幕軍に参加・・)に於いては、およそ考えられなかった過去に変わる 歴史は深い。。。 |
23 | 和歌山県民にほとんど知らてない史話 |
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鶴寿丸 2023/5/23 20:40
[返信] [編集] [全文閲覧] 紀州ゆかりの歴史上で最も大規模な戦争は何か?といえば、 天文11年の河州侵攻戦だろう (西暦1542年、あの徳川家康が生まれた年の出来事) 敵は高屋城(羽曳野市)の木沢長政、攻めるは守護大名・畠山稙長 稙長は本拠の河内を奪還するため、また将軍足利義晴の要請もあり、雌伏してきたここ紀伊広城から総勢3万人の兵を集めて総攻撃、見事に打ち破り勝利した この軍勢の内分けは、高野粉河根来の衆徒1万、雑賀熊野などの国人衆1万、湯河玉置山本氏などの奉公衆1万、計3万だったと伝わる それだけの大軍勢、また地理的に戦意がバラバラの紀州人が一国まとまり、どこかと戦った歴史などは他に例がなく、この時だけだ それらを糾合し、団結可能としたのが国主・畠山稙長の人望、カリスマ能力だったと中世の研究者からは高く評価されており、彼は山陰の尼子氏と連携して室町幕府の再編成、天下を握る野望があった?とも言われる(自筆の書に「天下の覚えに候」とあるのが、天下を取る意志の表れとの解釈) しかしその僅か3年後、稙長は41歳(36歳説も有)で急死、畿内の情勢は混沌化する 畠山家は家臣の守護代遊佐氏の専横もあり凋落、二代あとの畠山高政は奮闘し足利幕下に参画したが、続く畠山秋高は反信長派の遊佐により暗殺され、その次の畠山貞政は雑賀衆らに推戴され秀吉軍と対抗したものの惨敗消滅、1585年紀州の中世は終焉した(子孫は後に江戸幕府の高家旗本として復活、畠山基玄は将軍徳川綱吉の側用人に抜擢されるなどの光栄もあるが、紀州とは既に縁切れ) もし稙長公が長生してれば、紀伊は元より河内和泉大和まで治める屈指の大名となり、足利幕府を支える近畿勢力として三好織田の台頭は許さず室町時代は継続、歴史は大きく違ってたかも知れない 余談を言えばこの時代、戦国紀州を代表する国人は湯河直光・直春、宮崎直定など直の字を持つ者が多く、これは稙長の稙字の半分を偏諱して与えられたと考えられており、この太守と忠誠度の高い関係性からも、畠山稙長の名将ぶりが窺える |
24 | Re: 和歌山県民にほとんど知らてない史話 |
ゲスト |
名無しさん 2023/6/12 18:11
[返信] [編集] [全文閲覧] >1585年 和歌山城誕生と入れ替わりか 確かに県の歴史に1ミリも無いな畠山って http://wakayama-rekishi100.jp/ |
25 | 昔の八月十五日の出来事 |
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二つ引両 2023/8/15 17:00
[返信] [編集] [全文閲覧] 戦前の郷土史「紀北伝説集」に収録されている『高山亡魂記』は江戸時代の本だが、その言い伝えは戦国時代の永禄年間に遡る 高山(和歌山市の高積山)に夜な夜な亡霊が現れ、民衆を悩ませていると耳にした紀伊の守護・畠山高政が追福慰霊を行うという話 その亡霊の正体は、高政の先祖の畠山義深に、南北朝時代の延文年間「龍門山の合戦」で敗れて散った南朝軍の将・塩谷伊勢の霊魂だった 龍門山で死んだ武将の亡霊がなぜ高積山に現れたのか? それは敵の畠山軍が陣を張ったのが背後の和佐山(今の城ヶ峯)だったからで、そこは元々南朝方の城だったのだ ところが地元の郷士・和佐が北朝の幕府方に寝返り、畠山義深に提供してしまい、それが元で南朝軍は敗戦、塩谷はこの土地を恨んで絶命した訳であった 派遣した臣兵より、亡霊が泣きながら呟くその内容を聞いた高政が憐れに感じ入り、武士の情けで追悼・・という物語 あくまで伝説だが、徳川時代を生きた江戸期の民衆にとっては、南北朝から戦国まで存在した殿様畠山氏はまだ身近な存在であったことを窺わせる興味深いエピソードである |
26 | 紀州の歴史 |
ゲスト |
歴オタ 2024/10/4 20:12
[返信] [編集] [全文閲覧] かつて紀伊の国の中世史に確実に関係していた、清和源氏名門の武家・畠山 京都においては足利将軍家に次ぐNo.2、三管領の家柄 それは室町時代240年中200年以上の時間、近畿南部を守護する統領として力強く存在していた ただ僅か最後の30年余りにおいて力を失い有名無実となり、紀伊においては家臣国人衆らの勢威に取って変わられ、みなが知ってる戦国時代後半の主役の座を譲る形となってしまい、目立たなくなった・・・というのが真実 その結果、畠山家は「は」の字も語られることなく無活用、歯牙にもかけない存在に貶められ、完全ゼロ扱いへ。あれほど、これほど豊富なエピソード、痕跡が県内(特に有田郡)に残存してるにも拘らず、である 「難解なもの、人気がないものは完全無視」by和歌山県 なんと浅学な意識、浅慮な選択であろうか まことに口惜しく、残念という他に言葉はない… ![]() |
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