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Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 名無しさん 2023/3/5 20:39
Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 名無しさん 2023/3/15 13:33
和歌山県民にほとんど知らていない史話 鶴寿丸 2023/5/23 20:40
Re: 和歌山県民にほとんど知らていない... 名無しさん 2023/6/12 18:11
紀州の歴史 歴オタ 2024/10/4 20:12
昔の八月十五日の出来事 二つ引両 2023/8/15 17:00
Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 名無しさん 2025/12/3 16:55

20 Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代
ゲスト

名無しさん 2023/3/5 20:39  [返信] [編集]

引用:

名無しさんさんは書きました:
畠山稙長の書状展示中
https://hakubutu.wakayama.jp/exhibit/tegami2022/

県博、今は稙長の父畠山尚順(尚慶、卜山)と
その敵対者だった畠山義就(義夏、嶽山)の2人が、
それぞれ紀伊国人の小山氏に贈った感状や書状を展示
21 Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代
ゲスト

名無しさん 2023/3/15 13:33  [返信] [編集]

幕末明治に濱口梧陵翁が築いた広村堤防は有名だが、
実はその400年ほど前の室町時代に畠山氏が築いた「畠山石堤」というのも海側に現存している。
もはや城跡は草叢と化しているが、その石の堤だけはしっかりと、今でも紀伊守護大名畠山氏の痕跡として確認できる。
23 和歌山県民にほとんど知らていない史話
ゲスト

鶴寿丸 2023/5/23 20:40  [返信] [編集]

紀州ゆかりの歴史上で最も大規模な戦争は何か?といえば、
天文11年の河州侵攻戦だろう
(西暦1542年、あの徳川家康が生まれた年の出来事)

敵は高屋城(羽曳野市)の木沢長政、攻めるは守護大名・畠山稙長
稙長は本拠の河内を奪還するため、また将軍足利義晴の要請もあり、雌伏してきたここ紀伊広城から総勢3万人の兵を集めて総攻撃、見事に打ち破り勝利した

この軍勢の内分けは、高野粉河根来の衆徒1万、雑賀熊野などの国人衆1万、湯河玉置山本氏などの奉公衆1万、計3万だったと伝わる
それだけの大軍勢、また地理的に戦意がバラバラの紀州人が一国まとまり、どこかと戦った歴史などは他に例がなく、この時だけだ
それらを糾合し、団結可能としたのが国主・畠山稙長の人望、カリスマ能力だったと中世の研究者からは高く評価されており、彼は山陰の尼子氏と連携して室町幕府の再編成、天下を握る野望があった?とも言われる(自筆の書に「天下の覚えに候」とあるのが、天下を取る意志の表れとの解釈)

しかしその僅か3年後、稙長は41歳(36歳説も有)で急死、畿内の情勢は混沌化する
畠山家は家臣の守護代遊佐氏の専横もあり凋落、二代あとの畠山高政は奮闘し足利幕下に参画したが阿波から来た三好長慶の圧力に屈し織田信長に接近、続く畠山秋高は反信長派の遊佐により暗殺され、その次の畠山貞政は雑賀衆らに推戴され羽柴秀吉軍と対抗したものの惨敗消滅、1585年紀州の中世は終焉した(子孫は後に江戸幕府の高家旗本として復活、畠山基玄は将軍徳川綱吉の側用人に抜擢されるなどの光栄もあるが、紀州とは既に縁切れ)

もし稙長公が長生してれば、紀伊は元より河内和泉大和まで治める屈指の大名となり、足利幕府を支える近畿勢力として三好織田の台頭は許さず室町時代は継続、歴史は大きく違ってたかも知れない

余談を言えばこの時代、戦国紀州を代表する国人は湯河直光・直春、宮崎直定など直の字を持つ者が多く、これは稙長の稙字の半分を偏諱して与えられたと考えられており、この太守と忠誠度の高い関係性からも、畠山稙長の名将ぶりが窺える
24 Re: 和歌山県民にほとんど知らていない史話
ゲスト

名無しさん 2023/6/12 18:11  [返信] [編集]

>1585年
和歌山城誕生と入れ替わりか

確かに県の歴史に1ミリも無いな畠山って
http://wakayama-rekishi100.jp/

25 昔の八月十五日の出来事
ゲスト

二つ引両 2023/8/15 17:00  [返信] [編集]

戦前の郷土史「紀北伝説集」に収録されている『高山亡魂記』は江戸時代の本だが、その言い伝えは戦国時代の永禄年間に遡る

高山(和歌山市の高積山)に夜な夜な亡霊が現れ、民衆を悩ませていると耳にした紀伊の守護・畠山高政が追福慰霊を行うという話
その亡霊の正体は、高政の先祖の畠山義深に、南北朝時代の延文年間「龍門山の合戦」で敗れて散った南朝軍の将・塩谷伊勢の霊魂だった

龍門山で死んだ武将の亡霊がなぜ高積山に現れたのか?
それは敵の畠山軍が陣を張ったのが背後の和佐山(今の城ヶ峯)だったからで、そこは元々南朝方の城だったのだ
ところが地元の郷士・和佐が北朝の幕府方に寝返り、畠山義深に提供してしまい、それが元で南朝軍は敗戦、塩谷はこの土地を恨んで絶命した訳であった
派遣した臣兵より、亡霊が泣きながら呟くその内容を聞いた高政が憐れに感じ入り、武士の情けで追悼・・という物語

あくまで伝説だが、徳川時代を生きた江戸期の民衆にとっては、南北朝から戦国まで存在した殿様畠山氏はまだ身近な存在であったことを窺わせる興味深いエピソードである
26 紀州の歴史
ゲスト

歴オタ 2024/10/4 20:12  [返信] [編集]

かつて紀伊の国の中世史に確実に関係していた、清和源氏名門の武家・畠山
京都においては足利将軍家に次ぐNo.2、三管領の家柄
それは室町時代240年中200年以上の時間、近畿南部を守護する統領として力強く存在していた
ただ僅か最後の30年余りにおいて力を失い有名無実となり、紀伊においては家臣国人衆らの勢威に取って替わられ、みなが知ってる戦国時代後半の主役の座を譲る形となってしまい、目立たなくなった・・・というのが真実
その結果、畠山家は「は」の字も語られることなく無活用、歯牙にもかけない存在に貶められ、完全ゼロ扱いへ。あれほど、これほど豊富なエピソード、痕跡が県内(特に有田郡)に残存しているにも拘らず、である

「難解なもの、人気がないものは完全無視」by和歌山県
この浅学な意識、浅慮な選択はまことに口惜しく、残念という他に言葉がない
27 Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代
ゲスト

名無しさん 2025/12/3 16:55  [返信] [編集]

新たに7件 国登録有形文化財へ

海南市の榎家住宅と広川町の養源寺の建造物が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。新たに国の登録有形文化財に登録されるのは、海南市孟子の榎家住宅の主屋や繭蔵など5件と広川町広の養源寺の本堂と大黒堂の2件です。
養源寺は有田郡で唯一の日蓮宗の寺院で、本堂は、徳川頼宣の御殿跡地が徳川吉宗によって寄進され移転した直後の正徳3年・1713年に建設されました。大黒堂は、吉宗ゆかりの大黒天画像を祀る仏堂で、屋根の斜面を支える垂木が二段となっている凝った作りで、本堂とともに周囲の歴史的景観の形成に寄与していると評価されました。いずれも、このほど開かれた国の文化審議会が文部科学大臣に登録するよう答申したもので、登録されれば、県内の建造物の国の登録有形文化財は402件となります。
https://www.tv-wakayama.co.jp/news/detail.php?id=86159


養源寺は江戸時代、紀州徳川家の別邸御殿跡で知られてるが、元をただせば室町時代の紀伊守護所。守護大名畠山氏の広館が存在した場所である
(→城下御殿。広城は山の上、現在の高城山にあった)
まさにこの地こそが中世紀伊国の中心であった

なぜこんな場所が選ばれたのか?といえば、南北朝の戦いが背景にある
紀伊は大塔宮護良親王が活動した影響から南朝方の地盤であり、湯浅党や楠木支族など大和吉野宮や河内千早赤阪の南軍を後背から支援する勢力の巣窟であった。ゆえに対立していた北朝方の足利幕府が細川・山名・大内など有力武家に代々征伐を厳命してきたが、その中核にいたのが畠山氏である
初代紀伊守護畠山国清の弟の義深が龍門山合戦で勝利、南軍を紀中以南に追いやり義深の子の基国が最初の守護所を大野城(海南市)とし、さらに南征するため移したのがこの広川の地。要するに紀伊南部の敵との緊張関係からくる立地である
(もう一つは源氏の氏神である広八幡宮に近かった点が考えられる)

その後、応仁の乱で畠山家は分裂、広館は政長系が継承し再築、戦国時代まで何とか続くが、安土桃山期秀吉の紀州征伐で潰滅。紀州徳川藩を興した頼宣が跡地に御殿を新造したのは、過去の先駆者への敬意だったのかもしれない




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