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| 27 | Re: 広川が紀州和歌山の中心だった時代 |
| ゲスト |
名無しさん 2025/12/3 16:55
[返信] [編集] 新たに7件 国登録有形文化財へ 海南市の榎家住宅と広川町の養源寺の建造物が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。新たに国の登録有形文化財に登録されるのは、海南市孟子の榎家住宅の主屋や繭蔵など5件と広川町広の養源寺の本堂と大黒堂の2件です。 養源寺は有田郡で唯一の日蓮宗の寺院で、本堂は、徳川頼宣の御殿跡地が徳川吉宗によって寄進され移転した直後の正徳3年・1713年に建設されました。大黒堂は、吉宗ゆかりの大黒天画像を祀る仏堂で、屋根の斜面を支える垂木が二段となっている凝った作りで、本堂とともに周囲の歴史的景観の形成に寄与していると評価されました。いずれも、このほど開かれた国の文化審議会が文部科学大臣に登録するよう答申したもので、登録されれば、県内の建造物の国の登録有形文化財は402件となります。 https://www.tv-wakayama.co.jp/news/detail.php?id=86159 養源寺は江戸時代、紀州徳川家の別邸御殿跡で知られてるが、元をただせば室町時代の紀伊守護所。守護大名畠山氏の広館が存在した場所である (→城下御殿。広城は山の上、現在の高城山にあった) まさにこの地こそが中世紀伊国の中心であった なぜこんな場所が選ばれたのか?といえば、南北朝の戦いが背景にある 紀伊は大塔宮護良親王が活動した影響から南朝方の地盤であり、湯浅党や楠木支族など大和吉野宮や河内千早赤阪の南軍を後背から支援する勢力の巣窟であった。ゆえに対立していた北朝方の足利幕府が細川・山名・大内など有力武家に代々征伐を厳命してきたが、その中核にいたのが畠山氏である 初代紀伊守護畠山国清の弟の義深が龍門山合戦で勝利、南軍を紀中以南に追いやり義深の子の基国が最初の守護所を大野城(海南市)とし、さらに南征するため移したのがこの広川の地。要するに紀伊南部の敵との緊張関係からくる立地である (もう一つは源氏の氏神である広八幡宮に近かった点が考えられる) その後、応仁の乱で畠山家は分裂、広館は政長系が継承し再築、戦国時代まで何とか続くが、安土桃山期秀吉の紀州征伐で潰滅。紀州徳川藩を興した頼宣が跡地に御殿を新造したのは、過去の先駆者への敬意だったのかもしれない |
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